吉川史料館・館長日記
吉川史料館・館長の藤重豊が日頃思うことや歴史などについて書きます。
09 | 2016/10 | 11
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島根県立石見美術館に原田直次郎展を観に行く
 先日、島根県益田市にある県立石見美術館を友人と共に訪ねた。片道約4時間の行程である。(途中道の駅などで休息しながらのゆっくりした一日であった)          
 原田直次郎は、文久3年(1863)生まれで、明治32年(1899)、36歳で死去した洋画家である。早すぎた夭折であった。
 父は岡山の鴨方藩士であった。直次郎は洋画家を志してドイツのミュンヘン美術学校に留学した。そこで森鴎外に出会って、その友情は終生のものとなった。森鴎外が執筆した「うたかたの記」は、原田直次郎をモデルにしたと言われている。また、直次郎は鴎外の書籍の挿絵なども描き、幅広い交友関係を共有した。
 原田直次郎が帰国した頃、国内は欧風化の風潮に反対する運動が強く、美術界でも、フエノロサや岡倉天心などの伝統的日本美術の復興が叫ばれていた。
 しかし、原田直次郎は「西洋画は益々奨励すべし」とした。最初の欧画団体である明治美術会が、明治22年に結成されると、それに参加した。まもなく自宅に画塾鐘美会を開設して、日本における西洋画の普及に努めた。
 展示されている作品では「ドイツの少女」「神父」「上野東照宮」「風景」『高橋由一像」(原田直次郎の師匠、日本で最初に西洋画を広めた人物)「三条実美像」「蓮池」など、ドイツ自然主義アカデミズムの伝統を踏まえたものである。
 彼の没後10年を記念して、明治42年、森鴎外が中心になって、東京芸術大学で回顧展が開かれている。それから約100年後、彼の回顧展が計画された。神奈川県立近代美術館、埼玉県立近代美術館、岡山県立美術館、島根県立石見美術館の巡回展である。
 原田直次郎の足跡を辿ることによって、改めて彼が日本の近代洋画の振興に尽くした功績を知ることになった。
 ところで、この原田直次郎は、吉川家と浅からぬ縁があることを知った。たまたま直次郎の子孫の方がこの夏に当館に寄られたのである。
 吉川重吉の長女英子が、直次郎の甥熊雄の妻であった。熊雄は西園寺公望の秘書(貴族院議員でもあった。)をやっていた関係からの縁組であったと推測される。『吉川重吉自叙伝』(尚友ブックレット〈25〉)によれば、英子は娘の頃、イギリスに2年留学していたから、流暢な英語を話していた。
 参考文献 『原田直次郎 西洋画は益々奨励すべし』公式図録
      『日本美術史要説』(久野健・持丸一夫)

 ※訂正 前回北海道の旭山動物園を訪ねた記事を書き、その中で「ライオンがいない。」  
    と述べたが、「ライオンはいるよ。」との連絡をいただいた。私が見過ごしたもの 
    と思われる。ここでお詫びします。
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羅漢図 添え状(2) 
 羅漢図には、もう一つ添え状が付いている。書いているのは探原齋法眼とある。彼は幕末の狩野派の絵師である。また、「亥七月七日」の年月日については、彼の生きていた間で
2度あるが、慶応2年(1866)が適当と考える。

               添  帖

              紙本竪羅漢三

              幅對致一覧候處

              恵龐直筆にて候

              畢

               亥七月七日 探原齋法眼(花押)

 ところで、「紙本竪」というのは紙に描かれた縦長の軸物という意味であろう。また、「羅漢三幅」とあるのは、当時すでに三幅であったことがわかる。当館では十六羅漢図と伝わっているから、一幅欠落しているのではないかとも思っていたが、はじめから3幅であったのかも知れない。

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北 海 道 の 旭 山 動 物 園 に 行 く
 7月14日、帯広の親戚を訪ねた。そこの家族とともに、一泊二日の予定で、16日(土)に旭川の旭山動物園に行った。帯広からバスで片道4時間の行程である。山のなだらかな斜面を利用した広大な敷地を擁して園舎が展開している。
 いま国内には博物館が、約5、700館位ある。そのなかに動物園89、水族館153あるという。私は動物園と水族館が好きである。
 この動物園には、象とライオンはいない。しかし、北海道にある動物園であるから、ペンギン館やフクロウなどの北方の野鳥などや生き物の館は種類も多く充実しており楽しめる。
 わたしは「かば」が好きである。普通これまでの動物園では、園舎の池に浮かぶ「かば」を斜め上からながめるものであったが、ここでは地下に降りると厚いガラスを通じて、「かば」が水中を泳ぐ様子を、眺められるように工夫されている。「かば」が水中を泳ぐスピードが予想外に早いのに驚いた。あざらし館も同様な工夫が施されていた。
 この動物園の一つの特徴に、園舎に手書きの説明書きが掲げられていることである。そこにいる動物たちの習性やそれに関連する知識が提供されている。これがとても良いと思った。また動物図書館などもあり、来園者に対して学習の場所を用意していることに好感が持てた。
 ちょうど3連休に当たることもあって、来園者が多く少し驚かされたが、中国人と思われる人たちがかなり見受けられた。四分の一位にもなるのではないか。中国人の北海道訪問の人気はどこにあるのであろうか。

羅漢図 添え状(1) 
今回の展示の羅漢図には、それが納められている箱に、2通の添え状が存在する。これを読んで少し背景など考えてみたいと思う。

 「          画僧恵龐(がそうえほう)小伝

       本朝画史巻三(中古名品之部)云慧龐不知世姓墨画学牧         
       澗長於人物筆法出於
       周文稍似て略粗耳印文曰徳鼎益
       其諱乎
       古畫潜覧云画僧恵龐慧(慧叉作恵)号
       徳鼎享禄年間人也学牧溪玉礀
       長于人物法周文て別出一機筆      
       畫勁利能畫出山釈迦及羅漢像云々
             香雪齋誌   

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署名の香雪斎というのは、藤田伝三郎のことである。彼は長州藩奇兵隊の出身である。維新後は大阪で藤田組を開業した。伊藤博文・山県有朋などと交友があり、政商として一代で財閥と言われるまでに大きな財を築いた。
 はやくから書画骨董に関心を持ち、収集家として名高い。大正末・昭和初の経済不況期に多く売り立てをしたという。しかし昭和26年に大阪に藤田美術館が建設されたが、それは残りのコレクションで開設されたものである。
 ところで、『日本畫家鑑定大事典 第1巻』(中野稚宗、国書刊行会)によると、「慧龐(僧えほう) 名は徳鼎(とくてい) 初め周文に学ぶ、稍々似たる所あれど粗筆なり、後に牧溪・玉礀を学び、墨画の人物に長ず、その落款に大明成化六年(文明二年=1471、に当る。)とあり。帰化僧なり、遺作の十六羅漢三幅、高野山行人方寺院にあり。」とある。
 この羅漢図はもともと高野山にあったことがわかる。それがある時点で流出し、やがてどこかで藤田伝三郎が取得したと思われる。
 藤田伝三郎は男爵であった。また吉川重吉も男爵であり、二人とも長州人であったから、交際もあったと考えられる。藤田伝三郎が贈ったのか、あるいは吉川重吉が購入したのか分からないが、吉川重吉が何かの思いで吉川家に納めたものと思われる。


MIHO MUSEUM(滋賀県甲賀市信楽町)を訪ねて
 6月30日に日帰りで行ってきた。夏季特別展「極(KIWAMI) 大茶の湯釜展ー茶席の主ー」を観るためである。展示期間は6月4日~7月31日まで。
 朝6時30分に岩国を出て、帰宅は21時30分。少々疲れた。それでも京都まで日帰りができる時代になり、幸せと思わなければならない。新幹線で京都まで行き、琵琶湖線に乗り換えて、石山で下車する。そこからバスに乗って約50分、緑豊かな山の中にその美術館は建っている。                             
 チラシを読むと、「本展は「茶の湯釜」の研究者である原田一敏氏(東京芸術大学大学美術館教授・元東京国立博物館金工室長)の監修により構成され、芦屋釜・天明(てんみょう)釜に加え、利休の釜師おして知られる辻与次郎など初期の京釜や、江戸時代の釜にも焦点を当てます。あわせて、釜師たちが造った梵鐘や鰐口など関連する作品も展示し、奈良時代から近世までの釜の変遷を、名品の数々によって展望します。
 またこの度、重要文化財に指定されている9展の釜すべてが、初めて一堂に会します。信長・秀吉・利休・織部などが愛でたと伝わる釜も勢ぞろいします。先人たちによって守りつがれてきた名品たちの息吹を堪能する、絶好の機会となるでしょう。」とある。
 ところで、今回なぜこの美術館を訪ねたのかというと理由があった。今年の初め実は本郷歴史民俗資料館(岩国市と合併する前は本郷村)に行く機会があった。
 そこに茶釜が数個収蔵されていた。少し違和感を感じた。というのは歴史民俗資料館は文化庁が社会の急激な構造変化のもとで、急速に失われて行く農具や庶民の日常生活雑器をとにかく収集保存しようとして作ったメニュである。
 中世この地方は大内氏の支配下にあり、安芸、備後に勢力拡大するために軍勢を進めるとき、専らこの本郷(山代)の地を通ったのである。(瀬戸内の山陽道を通るより近かったのである。)時代は中国から伝わった喫茶の風習が、貴族や足利将軍家、あるいは地方の守護大名や武将たちに広がりつつあった。大内氏は九州の芦屋で作られた芦屋釜を随分各地に贈答品として配ったという。
 本郷歴史民俗資料館の茶釜のうち、一つ位は室町時代の製作になると、証明できないかというのが、私の仮説である。調査の結果を秋までにはまとめたいと思っている。


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