吉川史料館・館長日記
吉川史料館・館長の藤重豊が日頃思うことや歴史などについて書きます。
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 藤 袴 と 蝶 の 共 生

 数年前に、吉香公園に植えられている藤袴の花にアサギマダラという蝶々が飛んで来ている記事を新聞で読んだ。
 アサギマダラは東南アジアから海を北上して日本に来て、周防灘の姫島で一休みをして、瀬戸内海の沿岸に達し、藤袴の甘い芳香に引き寄せられて蜜を吸う。秋も深まり寒くなると、南下して南の島々に帰って行くという。
 この藤袴は秋の七草の一つである。平安時代の貴族は、藤袴の葉を乾燥させて、その香を服にたきこめ、女性を誘ったという。
 この藤袴の苗を入手しようとして、この3年間、市内の種苗店を探していたが、やっと先日6株を入手した。それを吉川史料館の裏庭に植えた。これが繁殖してアサギマダラが飛んで来るのが楽しみである。
 次に、平成27年10月6日の「日刊いわくに」紙上に載った記事を紹介しよう。

  岩国市の観光名所「吉香公園内」で秋を代表するフジバカマが開花、花の香りに誘わ
 れるように多くのチョウが集まっている。その中に海を渡るチョウとして知られる「ア 
 サギマダラ」が優雅に舞う姿が確認された。
アサギマダラはタテハチョウの一種で美しい大型チョウ。薄い水色の羽に網状の黒い 
 模様を持つ。
生態で特徴的なのは渡りをすること。毎年春、繁殖地を求め、アサギマダラの開花を  
 追うように台湾や南西諸島から海を渡って日本列島を北上する。秋になり気温が下がり 
 始めると今度は南下して台湾などで越冬、繁殖する。世代交代しながら最大1500~  
 2000キロもの超距離を移動するチョウとして知られる。
なぜ渡りをするかなど詳しい生態は解明されていないが、近年は羽化したアサギマダ 
 ラの羽にマーキング、渡りコースを解明する試みが進み、飛行コースが明らかになりつ 
 つある。
市内では数年前、吉香公園側の老人ホームの庭先にアサギマダラが飛来していること 
 が確認され、市は「チョウが舞う公園」として秋の観光期の新しい目玉にしようと吉香 
 公園内にフジバカマを植えた。
平成23年から公園でアサギマダラの飛来が確認され以後、毎年9月下旬から中旬に 
 かけてアサギマダラの姿が見られるようになって飛来数は年々増えている。
大きな羽をひらひら羽ばたかせ、フジバカマの周囲を乱舞する姿、花にとまって羽を 
 広げ、蜜を吸う姿はすっかり公園の風物詩となり、市民カメラマンの撮影スポットとな 
 った。昆虫フアンも訪れ、住民や観光客の人気も集めている。
今年もフジバカマの開花がやや遅れてアサギマダラの飛来も遅れたが、市から委託を受けて公園を管理している関係業者によると、9月29日、1頭のアサギマダラがフジバ 
カマに止まっているのが確認された。
4日現在は3~5頭が吉香公園内、旧目加田家住宅の庭にあるフジバカマ、鶏舎前に    
 あるフジバカマの間を往復する姿が見られるという。
業者は「今年のアサギマダラは例年よりも少し小さいようだ。数も少なく、なかなか フ
ジバカマにもとまらないので観察は難しいが、飛来数が増えれば、フジバカマの周囲 
 を 乱舞する姿が見られると思う」と話している。
10月最初の週末となった3、4日は市民カメラマンがフジバカマの周辺でアサギマ 
 ダラの姿を探す姿が見られた。愛媛県から訪れたという愛チョウ家の姿もあった。
公園内を散歩する住民から「昨日は2頭いましたよ。きょうはまだ見ていませんね」「つ 
 いさっき、目加田家住宅の庭にいるのをみましたよ」などの情報を聞きながらアサギマ 
 ダラの飛来を待つ人もいた。
長い人で3時間近くも飛来を待ち、ようやくフジバカマにとまったアサギマダラを見 
 つけると、「良かった。今年も撮影することができた」と感激の様子でシャッたーを切っ 
 ていた。
公園を訪れた観光客も案内する観光ボランテイアから「アサギマダラがいる」と聞い 
 て市民カメラマンと共にアサギマダラを撮影、「きれいなチョウですね。岩国に来てこん 
 なに珍しいチョウが見られるとは思わなかった」と喜んでいた。(写真は省略)
                                       」
 この藤袴は、もともと川原に群生している草花であるから、育てるのは、そう難しくはないそうである。因みに秋の七草を織り込んだ山上憶良の和歌がある。「萩の花尾花葛花なでしこの花女郎花また藤袴朝がほの花」
 

 
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島根県立石見美術館に原田直次郎展を観に行く
 先日、島根県益田市にある県立石見美術館を友人と共に訪ねた。片道約4時間の行程である。(途中道の駅などで休息しながらのゆっくりした一日であった)          
 原田直次郎は、文久3年(1863)生まれで、明治32年(1899)、36歳で死去した洋画家である。早すぎた夭折であった。
 父は岡山の鴨方藩士であった。直次郎は洋画家を志してドイツのミュンヘン美術学校に留学した。そこで森鴎外に出会って、その友情は終生のものとなった。森鴎外が執筆した「うたかたの記」は、原田直次郎をモデルにしたと言われている。また、直次郎は鴎外の書籍の挿絵なども描き、幅広い交友関係を共有した。
 原田直次郎が帰国した頃、国内は欧風化の風潮に反対する運動が強く、美術界でも、フエノロサや岡倉天心などの伝統的日本美術の復興が叫ばれていた。
 しかし、原田直次郎は「西洋画は益々奨励すべし」とした。最初の欧画団体である明治美術会が、明治22年に結成されると、それに参加した。まもなく自宅に画塾鐘美会を開設して、日本における西洋画の普及に努めた。
 展示されている作品では「ドイツの少女」「神父」「上野東照宮」「風景」『高橋由一像」(原田直次郎の師匠、日本で最初に西洋画を広めた人物)「三条実美像」「蓮池」など、ドイツ自然主義アカデミズムの伝統を踏まえたものである。
 彼の没後10年を記念して、明治42年、森鴎外が中心になって、東京芸術大学で回顧展が開かれている。それから約100年後、彼の回顧展が計画された。神奈川県立近代美術館、埼玉県立近代美術館、岡山県立美術館、島根県立石見美術館の巡回展である。
 原田直次郎の足跡を辿ることによって、改めて彼が日本の近代洋画の振興に尽くした功績を知ることになった。
 ところで、この原田直次郎は、吉川家と浅からぬ縁があることを知った。たまたま直次郎の子孫の方がこの夏に当館に寄られたのである。
 吉川重吉の長女英子が、直次郎の甥熊雄の妻であった。熊雄は西園寺公望の秘書(貴族院議員でもあった。)をやっていた関係からの縁組であったと推測される。『吉川重吉自叙伝』(尚友ブックレット〈25〉)によれば、英子は娘の頃、イギリスに2年留学していたから、流暢な英語を話していた。
 参考文献 『原田直次郎 西洋画は益々奨励すべし』公式図録
      『日本美術史要説』(久野健・持丸一夫)

 ※訂正 前回北海道の旭山動物園を訪ねた記事を書き、その中で「ライオンがいない。」  
    と述べたが、「ライオンはいるよ。」との連絡をいただいた。私が見過ごしたもの 
    と思われる。ここでお詫びします。
羅漢図 添え状(2) 
 羅漢図には、もう一つ添え状が付いている。書いているのは探原齋法眼とある。彼は幕末の狩野派の絵師である。また、「亥七月七日」の年月日については、彼の生きていた間で
2度あるが、慶応2年(1866)が適当と考える。

               添  帖

              紙本竪羅漢三

              幅對致一覧候處

              恵龐直筆にて候

              畢

               亥七月七日 探原齋法眼(花押)

 ところで、「紙本竪」というのは紙に描かれた縦長の軸物という意味であろう。また、「羅漢三幅」とあるのは、当時すでに三幅であったことがわかる。当館では十六羅漢図と伝わっているから、一幅欠落しているのではないかとも思っていたが、はじめから3幅であったのかも知れない。

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北 海 道 の 旭 山 動 物 園 に 行 く
 7月14日、帯広の親戚を訪ねた。そこの家族とともに、一泊二日の予定で、16日(土)に旭川の旭山動物園に行った。帯広からバスで片道4時間の行程である。山のなだらかな斜面を利用した広大な敷地を擁して園舎が展開している。
 いま国内には博物館が、約5、700館位ある。そのなかに動物園89、水族館153あるという。私は動物園と水族館が好きである。
 この動物園には、象とライオンはいない。しかし、北海道にある動物園であるから、ペンギン館やフクロウなどの北方の野鳥などや生き物の館は種類も多く充実しており楽しめる。
 わたしは「かば」が好きである。普通これまでの動物園では、園舎の池に浮かぶ「かば」を斜め上からながめるものであったが、ここでは地下に降りると厚いガラスを通じて、「かば」が水中を泳ぐ様子を、眺められるように工夫されている。「かば」が水中を泳ぐスピードが予想外に早いのに驚いた。あざらし館も同様な工夫が施されていた。
 この動物園の一つの特徴に、園舎に手書きの説明書きが掲げられていることである。そこにいる動物たちの習性やそれに関連する知識が提供されている。これがとても良いと思った。また動物図書館などもあり、来園者に対して学習の場所を用意していることに好感が持てた。
 ちょうど3連休に当たることもあって、来園者が多く少し驚かされたが、中国人と思われる人たちがかなり見受けられた。四分の一位にもなるのではないか。中国人の北海道訪問の人気はどこにあるのであろうか。

羅漢図 添え状(1) 
今回の展示の羅漢図には、それが納められている箱に、2通の添え状が存在する。これを読んで少し背景など考えてみたいと思う。

 「          画僧恵龐(がそうえほう)小伝

       本朝画史巻三(中古名品之部)云慧龐不知世姓墨画学牧         
       澗長於人物筆法出於
       周文稍似て略粗耳印文曰徳鼎益
       其諱乎
       古畫潜覧云画僧恵龐慧(慧叉作恵)号
       徳鼎享禄年間人也学牧溪玉礀
       長于人物法周文て別出一機筆      
       畫勁利能畫出山釈迦及羅漢像云々
             香雪齋誌   

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署名の香雪斎というのは、藤田伝三郎のことである。彼は長州藩奇兵隊の出身である。維新後は大阪で藤田組を開業した。伊藤博文・山県有朋などと交友があり、政商として一代で財閥と言われるまでに大きな財を築いた。
 はやくから書画骨董に関心を持ち、収集家として名高い。大正末・昭和初の経済不況期に多く売り立てをしたという。しかし昭和26年に大阪に藤田美術館が建設されたが、それは残りのコレクションで開設されたものである。
 ところで、『日本畫家鑑定大事典 第1巻』(中野稚宗、国書刊行会)によると、「慧龐(僧えほう) 名は徳鼎(とくてい) 初め周文に学ぶ、稍々似たる所あれど粗筆なり、後に牧溪・玉礀を学び、墨画の人物に長ず、その落款に大明成化六年(文明二年=1471、に当る。)とあり。帰化僧なり、遺作の十六羅漢三幅、高野山行人方寺院にあり。」とある。
 この羅漢図はもともと高野山にあったことがわかる。それがある時点で流出し、やがてどこかで藤田伝三郎が取得したと思われる。
 藤田伝三郎は男爵であった。また吉川重吉も男爵であり、二人とも長州人であったから、交際もあったと考えられる。藤田伝三郎が贈ったのか、あるいは吉川重吉が購入したのか分からないが、吉川重吉が何かの思いで吉川家に納めたものと思われる。




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