吉川史料館・館長日記
吉川史料館・館長の藤重豊が日頃思うことや歴史などについて書きます。
09 | 2013/10 | 11
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播磨国福井荘と吉川氏の関係について

 吉川氏は鎌倉時代から室町時代にかけて、播磨国福井荘の地頭職を持っていた。現在の姫路市南部の勝原・大津・網干の3区域をほぼ包括する地域であったらしい。
 私が当館に勤務し始めて、これまで話題になったことはなかった。先般、広島県立文書館で資料閲覧をしていたとき、偶々に水野恭一郎氏が書いた「播磨国福井荘と吉川氏」という論文があることを知った。それが『武家社会の歴史像』水野恭一郎(国書刊行会 昭和58年2月刊行)に所収されているという。
 古書店でこの書籍を入手し、それを読んで自分の備忘録を作成したので、一部を以下に載せて、みなさんの参考に供する。

 
 吉川氏は維清のころから駿河国有度郡入江保(のち入江荘)に住して入江氏を称し、さらに維清から4代の孫、経義のときから、入江保内の居住地である吉河邑の名をとって氏の名とし、初めて吉川氏を称するに至ったという。
 吉川友兼は、経義の嫡男で、通称を小次郎と言い、頼朝の御家人として、『吾妻鏡』のなかでしばしばその名が出てくる。正治元年(1199)頼朝が死去すると、腹心の武将として権勢を誇っていた梶原景時は、2代将軍頼家とは反りが合わなかった。そこで景時は、翌年正治2年(1200)正月、一族郎党を率いて上洛しようとした。
 頼家からの命を受けた駿河国の武士たちは同国狐ケ崎付近に要撃して、梶原一族を討ちとった。友兼は景時の3男景茂と一騎打ちをし、これを討ちとった。自分も深手を負って、翌日死去した。
 正月25日、将軍頼家はその忠功に報いて、友兼の嫡男経兼に、播磨国福井荘の地頭職を与えた。(『大日本古文書 家わけ第九 吉川家文書』 第1号)この福井荘の地頭職はそれまで梶原景時の保有していた所であった。

 経兼の息男経光は、承久3年(1221)、承久の乱の時、鎌倉方の武士として京都攻めに参加した。そして宇治橋合戦で戦功が著しく、安芸国山県郡大朝本荘の地頭職を付与された。
 その後、鎌倉時代をを経過する間に、播磨国福井荘の地頭職は、吉川経兼→経光→経盛→経家→経盛→経景と相承された。そして、南北朝の争乱の中で次第に勢力を失って、福井荘内の所領の維持が困難になって行ったようである。

 文永4年(1267)に経光から諸子へ所領の配分がおこなわれたのち、吉川氏の嫡宗で、安芸国大朝荘を相伝した経高は、やがて吉川氏本領の地である駿河国吉河邑を離れて、西国の大朝荘に本拠を移すに至った。将来の一族の繁栄を考えた時、所領も広く生産力も高い新恩給与の大朝荘を選んだと思われる。

 南北朝時代の中頃から1世紀余にわたって吉川氏との関係が中絶していた福井荘が、再び吉川氏の手に戻ったのは、応仁2年(1468)のことである。(吉川家文書 第291号・292号) 安芸国大朝荘に居た吉川氏の
惣領経基は、応仁の乱が始まると、細川勝元のもとで戦った。経基は鬼吉川あるいは俎板吉川などの渾名で呼ばれるほどの剛勇の聞こえ高い武将であった。その戦功に対する恩賞であった。細川方には赤松政則がおり、しばらく播磨での赤松氏と山名氏の争いでは、赤松氏の支援にまわっていた。

 応仁の乱がおわると、いよいよ100年も続く弱肉強食の戦国時代に突入する。播磨では浦上氏や別所氏、あるいは備中宇喜多氏、あとを追うように毛利氏、織田信長・豊富秀吉と言った勢力の侵入が始まった。安芸国・周防国・伯耆国でも大内氏と尼子氏の争い、それに毛利氏の台頭というように、安芸国の吉川惣領家もそれに巻き込まれながら、遂に毛利元就の息子元春を養子に迎えて、生き残りを図らなければならなかった。

 このような情勢の下で、本領から遠く離れた所領の保持は困難であった。福井荘に対する吉川氏の領主権は、激動する渦の中で、いつしか消滅していった。

 天正8年(1580) 播磨国に入った羽柴秀吉は、黒田孝高に対し、福井荘内より6200石を宛行っている。すでに荘園としての実態は消滅していた。

 水野恭一郎氏の論文は、『大日本古文書 家わけ第9「吉川家文書」』を使ったものである。これから福井荘を論ずるとすれば、水野論文以後に新しい史料の発掘ができないか、その上で新しい視角で荘園の構造に切り込むことが必要かと思う。
 
 
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岩国吉川会の広島県北広島町(大朝)への旅に参加

 
 岩国吉川会の1泊2日(10月19日~20日20日)の旅行に参加した。行き先は吉川氏の本拠地があった広島県北広島町大朝であった。一行は18名であった。
 岩国吉川会というのは、平成23年3月26日に「吉川氏の歴史的人物や藩政時代の治世を顕彰し、更に伝統と誇りある地方の文化を高め親睦を図ることを目的とする。」として発足したもので、入会金を払えばだれでも入会できます。
 その後、各地にある吉川会、すなわち駿河吉川会、石見吉川会、鳥取吉川会、岩国吉川会、安芸吉川会の5つが、交流会を何年か毎に開催しようということになった。駿河(静岡県清水)での開催に続いて、第2回が安芸吉川会引き受けで今回おこなわれた。                                        ちょうど吉川氏が駿河から安芸国大朝庄に本拠を移して、700年にあたり、龍山神社での祭典と、第6回吉川戦国まつりにも参加した。わたしはこれまで、すでに数回以上この地をおとずれているが、今回新たに得た知見を以下にメモしておく。 

1 今回は、現地のボランテイア・ガイドさんが町内各地の吉川関係遺跡を案内してくださった。マイクロバスで周 りながら町内の景観のイメ ージがかなり頭に入ったことは収穫であった。すなわち小倉山城跡、日の山城跡、元 春館跡の空間的位置である。

2 龍山神社の拝殿軒下の家紋が巴(ともえ)であったこと。これで戦国時代までの家紋がこれであったことを確認 できたこと。また手水鉢(石段をのぼって右手にあった。)大きな一枚岩を刳り抜いたものである。側面を見ると 大正元年に献納されたことがわかるが、これに付いている家紋がやはり巴であった。

【龍山神社の拝殿】
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「画像をクリックすると拡大」

【手水鉢】
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「画像をクリックすると拡大」

3 古保利薬師(元古保利山福光寺といったが、すでに廃寺となり、いま収蔵庫あり。)を訪れたこと。収蔵庫の内 部に、国指定の本尊薬師如来坐像をはじめとして、四天王立像など12体を拝観した。平安期の仏像群である。当 時安芸の国の国造の一族であった凡(おおし)氏の氏寺だったという。吉川氏入封以前の安芸国山県郡の歴史はど のくらい明らかになっているのであろうか。

4 記念講演で、広島大学名誉教授 岸田裕之氏の講演「吉川元春の人物像」があった。これは勉強になった。教授 は、一貫して戦国時代の毛利氏の研究をされた。退官までに、『大名領国の構成的展開』(1983年) 『大名 領国の経済構造』(2001年)『大名領国の政治と意識』(2011年)を著しておられる。 
 
5 旅の最後に、八幡高原の湿原地域を訪れたが、私にとっては一番興味をもっていたところである。ガイドさんの 案内で1時間ばかり湿原を散策した。                                    広島県は太田川の浄化と清流の維持に関しては大いに力を入れている。三次の近くには川に関する歴史民俗資料 館があるし、今回ここに「高原の自然館」があるのを知って驚いた。ここで『写真と文で大田川を覗く 太田川水 族館』 内藤順一(2009年11月22日発行)を購入した。
  私は、錦帯橋の世界遺産の指定運動が、錦帯橋の単体に特化して行われていることに批判的見解を持っている。 空間的にもっと広く景観を含めて保存の基本構想を立案すべきである。観光客のうちには、錦帯橋の上から橋下の 流れををみて、その清流を賞める人もいるというが、子どもの頃からこの川で遊んだ私に言わせれば、錦川の汚染 は目を覆うばかりである。いまや鵜飼は田んぼの中でおこなっているようなものである。錦川の動植物、および民 俗の研究が盛んになるのを祈るばかりである。


 秋路を四国松山の道後温泉へ
先日、中学校時代の同級生たちと、20人でマイクロバスに乗り、道後温泉に一泊二日の旅をした。この旅での感想を少し書いてみたい。

 途中、何ケ所か見物に立ち寄るところがあった。一つは今治のタオル美術館があった。開館してまだあまり時間が経っていない。ここで感じたのは、いまの時代すべての生産物はデザインと色彩で付加価値をつけるということである。確かに今治のタオル地は、優れた布地として有名で地場産業を支えてきたが、今やアートとの地位を目指している。5階建ての洋館であったが、1階はフランスの高級プレゼント品、2階は四国の物産展、3階から上はタオルの生産工程を見学できるとともに、製品の販売コーナーである。色彩が溢れている。ちょうど中学生の修学旅行と思われる一団と一緒になったが、籠を持って右往左往していた。美術館はタオル地に作家が思いのデザインと色を踊らせている。

 それと、これからの美術館・博物館は高級感のあるレストランとカフエが不可欠だと思った。館内を廻った後の食事と休息、それに語らいが大事なのだ。ここではガーデニングにも力を入れ、そこでの結婚式も可能らしい。

 翌日、砥部焼の開館にも寄ったが、ここは15年位前にも来たことがあった。ここでも砥部焼のデザインが随分変わってきたことがわかる。また焼き物の厚さが薄くなってきた。

 一方で、大三島では大山祗神社に参拝した。ここは古代から瀬戸内海の航路安全を祈って、貴族や武将が刀や鎧兜を奉納してきた。おびただしい所蔵品があると想像される。参拝のあと宝物館を見学した。館内は古いタイプの展示である。私などは、いまの仕事柄それなりに鑑賞にふけった。義経の鎧や山中鹿之介の鎧兜も「伝」の字を被せて展示されていた。この2つについては専門の研究者の論考があるのかどうか知りたいと思う。

 ところで、一行の中で宝物館に入ったのは、私一人であった。あとの連中はお土産店で休み、駄べっていた。いまの日本人には刀や鎧兜に興味を示すのは、ごくわずかの好事家だけになった感がする。

 帰宅後に、久しぶりに書棚から『日本甲冑の基礎知識』(山岸素夫・宮崎真澄著 雄山閣)を取り出してしばらくページをめくった。
上月城跡の訪問(兵庫県佐用町)
長い間休眠していたが、いよいよ再び帰って来ました。

さて、吉川史料館では,秋の展示替えを行いました。テーマは「上月城と鳥取城の戦い」展です。期間は25年9月20日~12月23日です。

 私は、まだ上月城の城跡を見たことがないので、この機会にその土地を訪ねてみたいと思い行く事にした。10月6日、朝の6時30分、我が家を出発した。(同行者1名)(目的地は兵庫県佐用町)
 大竹から山陽高速自動車道に入る。広島五日市から中国高速自動車に分かれ、安佐、神郷、勝央を経由して、佐用JCTから降りる。上月山の麓に、11時30分到着。

 そこには上月歴史資料館があった。早速入館して拝観した。上月城の戦いのパネル。それにこの地方で作られていた土俗的な土人形たち、それにまたこの地方で盛んだった紙の生産の展示などあり、紙漉きの伝承館も併設されていた。

【上月歴史資料館】
DSCF0728_R.jpg
「画像をクリックすると拡大」

 さて、いよいよ上月城跡を目指して登る。305メートル位であるから、25分位で頂上に着いた。かなりな平坦地で、整備されて複数の石碑も建てられていた。石垣などはほとんど残っていないが、空堀は確認できた。山の斜面は麓に向かってかなり急峻なことが認められ、攻めるにはかなり困難を伴うと思われた。麓は佐用川が流れ、この地は播磨、備中、但馬の三国の国境にあり、山陽の姫路、岡山から山陰の鳥取を結ぶ交通の要衝の地であったことがわかる。

【左正面が上月城跡】
DSCF0740_R.jpg
「画像をクリックすると拡大」

 上月城の戦いを簡潔に述べると、以下のようになる。
 上月城では天正6年(1578)4月18日、尼子経久を擁立して城に立て籠もる山中鹿之介らを、毛利軍の吉川元春らが包囲網を完成した。羽柴秀吉は、5月1日、救援に駆けつけ、上月城の東、高倉山に陣を敷いた。両軍の戦端は、6月21日切って落とされた。
 しかし、信長は反旗を翻した別所長治の三木城の攻撃を優先するように指示してきた。上月城山麓での戦いは秀吉に不利な戦況であったために、やむなく陣を後退させざるを得なかった。尼子勢を見捨てる形になってしまったのである。籠城の尼子勢は城を支えきれず、籠城70余日にのぼったが遂に開城となった。尼子経久は自害して果てた。鹿之助は次の再起を胸に秘めて捕虜となった。

 元春は、鹿之介を輝元の本陣に送ることにした。輝元は将来に禍根を残さないように、福間彦右衛門、河村新左衛門らに命じて、護送の途中で殺害するように命じた。7月17日、山中鹿之介は備中国合の渡し(岡山県高梁市落合町阿部)で最後を迎えた。時に年齢は38歳あるいは、45歳といわれる。こうして山陰の名族尼子氏は滅亡した。

 元春は、この一代の英雄の死を悼み、残された鹿之助の兜を、吉川家の重代の家宝とするように命じた。吉川史料館では、毎年秋の展示でこの兜を出している。今でも山陰地方の人々には人気があり、この兜を目当てに来館される人は多い。

 帰りも、同じ経路を走り、岩国の我が家に着いたのは、19時ごろであった。所要時間約12時間。道のりは約600キロであった。わが中古品の自動車には荷が重すぎて、翌日はエンジン不調となった。

 ところで、資料館で以下の、2冊の書籍を購入した。『三日月町史 第2巻 中世』(平成11年3月1日 第3刷 兵庫県佐用郡三日月町 発行)と『佐用郡地域史研究会 紀要第4号』である。
 後者の『紀要第4号』はなかなか優れた内容である。山口県でも県内市町村の地域で郷土史あるいは地方史の研究会が機関誌を発行しているが、これほどのものはほとんどないと言ってよい。編集者および会員に敬意を表したい。




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