吉川史料館・館長日記
吉川史料館・館長の藤重豊が日頃思うことや歴史などについて書きます。
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 平成25年秋、吉川報效会のイベント
 今年の秋のイベントが、11月16日(土)に、第9回山花祭と銘打って例年のように挙行された。庭の昌明庭で、吉香神社の宮司により、山の神・川の神に感謝するする祝詞が奏上された。庭では藤本理事の世話で、子どもたちの吉川剣道大会が行われ、庭の一隅では官休庵のお茶の接待もあり、午後のガーデンパーテイもにぎやかであった。
 午前中には、第9回吉川俳句大会の表彰式も行われ、昨年から児童生徒の部が設けられて、表彰式も一段と華やいだものになった。さらに正門の内側にちょっとした市場も開かれて、岩国寿司や巻きずし、あるいはお餅、さらには美和町の蜂蜜、錦町の草木染などの即売会も華を添えた。
 これに合わせて、長屋の空間では、11月8日(金)から11月30日(土)の間、「篆刻・方寸の世界」<第2回西扉印会岩国支部展>(―篆刻家笹倉凌石とその門下生の篆刻・刻字の作品展―)が催された。(世話役は大石紗寥さん)
 ところで、篆刻という言葉が私たちにあまり馴染みでないが、よく床の間の掛け軸などに、関房印や落款が印肉の朱色で押されているのを、見ることがある。あの字が篆書体の漢字である。
 漢字は中国で甲骨文字から始まるとされているが、やがて象形文字として篆書体に完成する。間もなく唐の時代にはいまの漢字がほぼ完成するのである。一方で中国の文人たちは、雅号印、図書収蔵印、堂号印などには篆書体を使った刻印趣味を深めていった。さらに明の時代になると、中国で刻しやすい石の発見もあって、「方寸の世界」ともいわれる「印面の中に表現の技巧を駆使して、印泥の朱と紙の白が織りなす独特の芸術をさらに高く育てていったのである。」
 明で盛んになった篆刻は、17世紀の終わりに日本に入ってきた。この篆刻の日本伝来には、岩国3代藩主広嘉と関係のあった僧独立(どくりゅう)の功績が大きい。岩国では医師として招かれて、錦帯橋の発想のヒントを与えた人物という側面が大きく伝えられているが、彼は明時代末期に地方官を勤めていたが、清朝の異民族支配に屈することを拒否して、海外に逃亡し、日本に辿り着いた人物である。長崎で隠元禅師の弟子になり得度するとともに、医術を勉強して生活の糧にした。
 彼は、隠元とともに江戸に向かい、5代将軍家綱の前で幕府の儒学者たちと対談するが、日本の四書五経の理解の程度の不十分さ、漢詩文の素養の低さに驚いたという。さらに書にも優れて多くの影響を残した。岩国藩の藩士たちが漢詩文を作り始めるのも独立の影響である。
 篆刻はいま書道の一分野として、芸術の一科をなしているが、この分野の好事家がどちらかというと少ないのはどうしてかと、常日頃考えていたが、その理由の一つがわかったような気がする。それは石の値段が高いのである。香道が明治時代以降もなかなか大衆に広がらないのが、香木の値段が高いことに理由があるという。それと同じと見た。

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古筆切れについて
 今回、根津美術館(東京)の「和歌を愛でる」展では、何点もの掛物に表装された古筆切れを鑑賞することになった。
 古筆というのは、茶の湯の世界で平安~鎌倉時代の歌書を中心とした和様の書を指していう。
 古筆の大部分は歌集の写本などであり、以下に『 館蔵 古筆切 』(鑑賞シリーズ12
根津美術館)からの引用文を載せておきたい。
                                        古筆の大部分を占める歌集の写本は、贅を尽くした美麗な料紙に当時の能書が筆を揮
ったったものが多く、制作当初から貴族たちの贈答品として、あるいは棚飾りの調度と
してとりわけ重んじられたものだった。もちろん、そうして豪華本だけでなく、本文を
正しく伝えることを目的としたテキストや編纂途次の稿本もある。ことに歌道師範を職
とした家々には、自家の家風・家説の権威の根拠となる古写本が大切に伝えられていた
と思われる。
  「古筆切」はこうした古筆を切断したもので、古筆の切はしの意。切(きれ)は断簡
と同じいみである。単に古筆ということもある。古筆の切断は、室町時代、茶の湯の盛
行と時を同じくする古筆鑑賞の高まりのなかで起こった。数百年を経て伝来した古筆は
数に限りがある。せめて一部分でも手に入れたい、という愛好者の切実な需要を満たす
ためには、それらを分割・切断するほかはなかった。巻物(巻子)であれば継ぎ目から
はがし、冊子の場合は綴じ目を解いて、一紙または一頁に、さらには数行にまで切断さ
れた。本来は表装されない一枚ものの懐紙や手紙などまでが切断されることとなったの
である。

 古筆切は掛物に表装されるか、または手鑑(手鏡と表記されることもある)に貼りこま
れて鑑賞された。
 吉川史料館には、「源氏物語」や「古今集」の古写本が伝わっており、また「手鑑」も伝
わっている。中世文学の研究者に公開されて学会に寄与している。
ところで、根津美術館には「右衛門切(えもんぎれ)」という古今和歌集の古筆切れが所
蔵されている。これは平安時代、12世紀の寂蓮の筆になると伝えられているものである。
これは豊後国日出藩木下右衛門大夫延俊が所持していたことから、この名前が命名された。
 この日出藩(ひじはん)は、豊臣秀吉の北政所(ねね)の兄木下勝俊(長嘯子)の流れ
を汲む。木下勝俊は秀吉に従う武将として、また細川幽才の歌道の弟子として生き、関ケ
原合戦後は激動のなか、徳川家康から存続を許され、その家は備中国足守藩と豊後国日出
藩に分かれ幕末まで続く。
 木下勝俊(長嘯子)は、江戸時代初期、京都に隠棲生活をおくり、歌人としての名声は
高かった。その豊富な蔵書は知られており、死後は子孫に伝えられたと考えられる。日出
藩に伝えられた、寂蓮筆の「古今集」はおそらく江戸後期あるいは明治以後売りに出され
たと考えられる。それが一冊では値段が高く、結局何十かの断簡に切断され、売買された
その一つが実業家根津嘉一郎氏の手にはいったと思われる。
 岩国藩の12代藩主吉川経幹の正室は、備中足守藩の姫君(延)から輿入れした。順正院が
その人である。和歌に造詣が深く、多くの歌を残し、死後、和歌集『松廼舎集』(上・下)
が刊行されている。歌詠みの家柄の末裔に相応しい。また明治時代の歌人木下利玄は甥に
あたり、白樺派歌人として有名である。

岩国徴古館で催されている「雲道人・東五親子展」について
 期間 平成25年11月3日~平成26年1月13日
 主催 岩国徴古館
 共催 不器の会
 後援 岩国の文化を育てる会
    岩国茶道連盟

 雲道人は小林全鼎のこと。小林東五はその子息である。この二人は親子であって、陶芸家である。今回の展示会を拝観して、絵画や書も堪能なことを知った。私がこの二人の存在を知ったのは、わずか2年前のことである。
 今回の展示会である程度まとまった作品を観て、その作品の高度な芸術的空間を堪能させてもらった。そしてこの二人の芸術家が、岩国と奇しくも深い因縁をもっていることを知ったところである。多くの人たちに鑑賞をお薦めしたいと思う。
 二人の横顔については、受付でもらう小冊子の簡潔な記述でわかるが、ここでは玉田太郎先生(故人・元錦病院院長)が、『医家芸術』(第44巻第11号 平成12年)に掲載された「夢自在(不思議な縁)」を、引用しておく。

 私が雲道人さんを知ったのは、今を去る三十も昔、昭和四十五年であった。ある日、知人の警察署長Sさんが「相談に乗ってもらいたいことがある」と言って、連れて来られたのが雲道人さんであった。「実は雲道人の夫人が病床にあるが渉々しくない、どうしたらよいものだろうか」、との相談であった。
 病院はカリエスで戦中戦後よく見られた病気なので、私もたくさん沢山経験していた。で、私は夫人を診察したわけではなかったが、病状について詳しく説明し、療養の在り方など指導したのであった。
 後でお礼にと言って、一幅の自筆の書を送って下さる。それは半切に大きく「夢自在」と書かれていて、墨痕鮮やかな見事なものであった。「夢は自在です。医師には夢が必要です。自在に夢に遊んで下さい」との言伝であった。
 「夢自在」は私の意に叶う言葉である。私は元来ロマンチストでよく夢に遊ぶ。「そうだ。今後は俳句に於いても夢自在の世界を展開しよう」と、密かに心に期したのであった。
 さて、初対面の雲道人は黒づくめの和服姿で、頭は短髪だが顔には長い美鬚を蓄えた、少し憂い顔の哲人みたいな風格のある人であった。
 S署長によれば、署長の前任地・山口で趣味を通じて知り合った仲であるとのみの紹介で、職業については何の説明もなかった。私も、そこまでは深く聞きもしなかった。そして以後、全く交わる機会もなく経過する。S署長ものち退職され会う折とてなく、雲道人の消息は全くわからず仕舞いになってしまった。
*             *

 約十年の歳月が流れる。昭和五十六年の春の事である。私は所用あって、県庁の所在地山口に出張した。用事を済ましたあと、桜の名所、後河原の川沿いを歩いていると、路傍に「雲道人遺作展示場」の看板が出ているのが眼に入る。「あ、あの雲道人だ。そうだ、あの人は山口のひとだったでも遺作品展とは。もう亡き人なのだ。そして遺作品とは何なんだろう。」
 私は花見を止めて会場の小館に飛び込んだのであった。
 私は見た。そして知った。雲道人は日本画家であり書家であり、陶芸その他の芸術にも、手を染めている芸術家なのであった。既に有名人のようで、そのどれもが私の目をもってしても魅力的なものであった。私はもっと雲道人さんを知らねばならないと思った。
 過ぐる年、初対面の時、なぜ人物について立ち入って聞かなかったかと、悔やまれるのであった。
 取りあえず雲道人の死亡の様子や夫人の病気等、気になったので受付の人に尋ねたのであったが、あいにく展示の責任者が不在で何もわからない。又の機会に調べる方法もあろうかと思って、会場をあとにしたのであった。
 そして、私の怠慢で「夢自在」の書に雲道人さんを偲ぶに止まって、忘れるともなく時は流れていった。

*           *
 
 光陰矢の如しで、また十四、五年が瞬く間に過ぎ去った。思いがけない時に、思いがけないことが起こるものである。平成八年の冬のこと、私は独りで京都に遊んだ。二、三の寺苑を見て廻る計画であった。偶然にも相国寺の前を通り掛かると、門前に「金閣寺所蔵雲道人遺作品展」の看板が出ているではないか。私はびっくり仰天。京都で亡き雲道人に遭遇出来ようとは夢にも思っていなかったことである。私はすぐに寺内に駆け込んだ。
 有るわあるわ。あの山口の作品展どころではない。水墨画、詩書を主体とした陶磁器、版画、漆器、染色、篆刻等々、日本古来の芸術作品がずらりと陳列されている。素人の私の鑑賞眼を以てしても、みんな素晴らしく思えて圧倒される。又その凡てが金閣寺所蔵とは驚きである。私は早速受付にとって返し、「金閣寺所蔵雲道人」なる案内書を求める。
 私はこの案内書を開いて、初めて雲道人の全貌を知ることが出来た。雲道人は一流の芸術家で既に有名人であった。無知の故に、又、知ろうともしなかった故に、初対面より二十有数年の間、全く関知することなく刻を過ごしたことが後悔されるのであった。
 でも陳列の作品を鑑賞して認識を新たにすることが出来たことは、遅きに失したとは言え、嬉しいことであった。
 ここに到って「夢自在」の書は、私にとって無二の宝となったと自覚する。
 案内書により雲道人と金閣寺との関係も理解できた。雲道人が京都にて活躍の時代に、当時の金閣寺住職・村上滋海長老が後盾となって、各種作品を収集して金閣寺に保管しておられるのである。
 ここに案内書にある雲道人の履歴の概略を抜記しよう。
 雲道人 明治十三年生まれ、若くして仏門に入り、終業して雲水となり、後俗界に還り芸術の道に進まれる。東京、京都その他の地を遍歴し、書画・陶芸その他の芸術作品をものし、その各々に天賦の才能を発揮して名を成される。大東亜戦争終結の前年になって山口に疎開し、小鯖に雲庵を結び、そこを終焉の地とされたのであった。
 姓名は小林全鼎と言い、号を雲道人と称し、山口にあっては雲老、雲翁とも落款しておられる。二度の結婚歴があって、後の夫人との間に四男一女を成し、長男のみが陶芸家となり父業を継いでおられる。
 山口時代に、夫人が前期のようにカリエスに罹られ、私との接触の機会が生まれたのであった。しかし、その会見の二ケ月後に雲道人は覚悟の上の自害をしておられる。行年八十歳であった。その死の原因については記載がない。

*             *

 さて二度あることは三度と言う。又、灯台もと暗しである。私は京都で雲道人の人と成りを知ってより又二、三年が過ぎ去った。つい最近のことである。私は所用あって知人Hさんを訪ねた。用件を終えて雑談に入ってから、何かの弾みで私が雲道人の書のことを持ち出すと、Hさんが「その人なら知っています。息子さんが岩国に居られたことがあります。今その人の寓居がありますが、そこで雲道人の書を見ました」とのことである。ここで、又私はびっくりする。雲道人の子息が、この岩国の住人であったなど思っても見なかったこと。よく聞けば、その子息は雲道人の長男で、小林東吾と言い、今は対馬に在って窯元を有する陶芸家であるとのこと。「ついこの四月には、東吾さんの陶芸作品展が、広島の福屋デパートで開かれていたので観てきました」と言って、手元にあった『対馬小林東吾展』なる案内冊子を見せてくださる。
 見れば正しく雲道人の長男である。案内を見ると東吾さんは父君の死後、韓国に渡り高麗三嶋焼について勉強し、独特の芸風を習得して帰り、対馬に対州窯を再興し製作に余念のない、既に余に属目されている新進気鋭の陶芸家である。この父にしてこの子ありと言えよう。写真で見ると見慣れた萩焼などとは又違った風格のある陶芸作品が載っている。
 私は東吾さんに会わなければならない。会って父君のことを持っと詳しく聴かねばならない。と思ってHさんに教わった寓居に電話すると、留守番の管理人がいて「東吾さんは時々岩国に来られるから、その折にお会いください」との返事であった。
 東吾さんは留守であったが、寓居にある雲道人の書はお見せするとの快諾が得られたので、訪ねて扁額に入ってる書を見せていただく。「夢自在」と同類と思うと、親愛の情入湧き起こるのを覚えるのであった。その際、気になっていた雲道人夫人の消息を聞くと、管理人はよく知っていて「東吾さんの母堂は今は元気になられて、山口小鯖の雲庵に在って夫君の位牌をお守りしておられます」とのことであった。
 これ又驚きである。カリエスを克服して元気になられたのだ。消息がわかって長年の不安な思いが吹っ飛んだのであった。

*             *

 次々と機会が訪れて、回を重ねる毎に対象がはっきりしてくることがある、私の心に雲道人がなくてはならない人物として印象されて来た道程がそれである。
 そして知れば知るほど、凡てが知りたくなるのが人情であろう。私は孤高の芸術家雲道人を思う。そして、もっと知りたい。私は東吾さんに会える日が待ち遠しい。
 仏教の因縁ではないが、縁とは不思議なものである。偶然が必然を生む。そこには目に見えない因縁の糸が渡されているのであろうか。一期一会より発した不思議な縁の発展を覚えずにはおられない。そして「夢自在」である。
(平成十二年8月三十日記)

1月9日 用件あり上京、合い間をみて博物館・美術館を歩く

 次の5館を大急ぎで見て回る。(1) 東京国立博物館(上野) (2) 出光美術館 (3) 国立科学博物館 (4)

 根津美術館 (5) 日本橋三越本店(催し場)

(1) 東京国立博物館
  一部改修工事をおこなっており、閉鎖されているところもあったが、本館では「日本美術の流れ」が開催されて

いた。縄文時代の土偶から江戸時代の浮世絵まで、国宝・重要文化財など第一級の優品をふくむ日本のさまざまな美

術作品を、時代の流れにそって展示されていた。
 私は、刀剣の展示室で一番ながく時間を過ごした。刀剣では刃文のことをいろいろ言ったり、沸や匂のことを言う

けれどどうもよくわからない。しかし、国宝級の刀をじっくりみるとその美しさに魅せられる。
 3時間ぐらいゆっくり時間を過ごし、そのあと構内のレストランで休憩する。博物館前の池の周辺も、この2,3

年かなり整備されて変わってきた。

(2) 国立科学博物館
  地球館では「大恐竜展」が行われていた。土曜日だったので子供連れの家族でにぎわっていた。中央アジアのゴ

ビ砂漠の発掘の様子から、発掘された化石をつなぎ合わせ、大空間に展示されている骨格標本をみると、地球規模の

環境や人間の営みの取るに足らない対立を考えると、人間の醜さを考えさせられる。「日本館」の方は観るだけの元

気が残っておらず心を残しながら退出する。公園内にできた比較的新しいレストランで遅い食事を取る。

(3) 出光美術館 
  「板谷波山 没後50年展」をやっていた。私は知らない陶芸家であったが、今回初めてゆっくり眺めて気持ち

のよい時間を過ごす。パンフレットから説明の一部を引用しておこう。
 「近代陶芸の巨匠、板谷波山(1872~1963)は、明治・大正・昭和の美術思潮に応えらがら、困難な時代

を乗り越え、最高の美を求め続けました。美しさを夢見る力は、高い理想と誠実な技に貫かれた作品のすべてに、魂

のように籠められています。生涯をかけて自己への厳しい姿勢で追及された陶芸は、波山を、そして私たちを至福の

世界に包み込むものに他なりません。波山が世を去って半世紀の今、出光コレクションの波山陶芸約180件と、そ

の肉筆が波山の息吹を伝える素描約120件を一堂に展観し、私たちの時代へ、夢みる力を問いかけます。」
 この陶芸家の特色は「薄肉彫の技法が作り出す線と光」にある。素描をみると、デザイン決定までの思考過程が、

いかに生みの苦しみのなかから形を作っていくのかがわかり感動する。

(4) 根津美術館
  コレクション展「和歌を愛でる」をやっていた。出品目録から抜き出すと、「季節の移ろいや心の微妙なありよ

うを、31文字に託して詠んだ和歌は、日本美術と密接な関わりをもち、さまざまジャンルで造形化されてきました

。人々は和歌を詠み、流麗な手跡で文字に表し、また、絵画や工芸に表現された意匠から和歌を読みとき、茶道具に

は歌銘を付して新たな価値を見出してきたのです。」
 本展では「館蔵品の古筆、屏風絵、蒔絵の硯箱、茶道具など和歌にちなんだ名品を厳選し、重要文化財9件を含む

30件余が」展示されていた。
 観覧後、庭を散策しながらレストランにて、お茶を飲む。ここの日本庭園をブラブラするのがとても好きである。

(5) 日本橋三越本店催し場
  富士山が世界遺産に指定されたことを記念して、富士山の絵画と写真の展覧会が行われていた。横山大観の富士

山にはじまり、いろいろな画家の富士山が数十点展示されていた。私は林武の富士山が好きである。梅原龍三郎の富

士山の絵を観たことがないが、彼は描いていないのであろうか。

 11日の夜疲れて帰ってきた。13日から風邪に罹り、一週間いまなお苦しんでいる。どうしても痰と咳が取れな

いのだ。
『木下長嘯子』大内瑞恵(笠間書院 2012・10・31初版第1刷)を読む
  
 笠間書院の『リポート笠間№55』をたまたま手に取ったら、『木下長嘯子』という本が出版されていることを知った。コレクション日本歌人選の一冊として刊行されたものである。
 この長嘯子という人物は、幕末の吉川経幹の正室順正院の先祖に当たる人物である。順正院は、備中足守藩2万5千石、木下肥後守利愛のむすめ延として生まれ、嘉永5年5月、岩国に輿入れし、明治24年2月死去した。和歌を好んでたくさんの歌を残している。没後、歌集『松廼舎集』(上・下)が刊行されている。また、順正院の甥木下利玄は白樺派の武者小路実篤や志賀直哉と交友があり、個性ある和歌を詠んで、日本近代和歌史の書物では、必ず取り上げられている。
 長嘯子(勝俊)は、豊臣秀吉の正室北政所(ねね)の兄木下家定の養子になった武将である。和歌を好んで、細川幽斎にいろいろなことを学んで、秀吉のお伽衆の一人として、文事に関わることに参加して活躍した。
 しかし、関ケ原の合戦の前後、武人としての行動にはいささか問題があって、多くの武将から批判をうけることになった。その後、家康の逆鱗に触れて改易となるが、一命は取り留めた。ところで、慶長20年、大阪の陣に、二男利房が戦功いちじるしく、父の遺領2万5千石を与えられ、この木下家が幕末まで続き、明治になって子爵となった。
 長嘯子は、その後、京都の西小塩の里に移り住み、隠棲生活に入る。西行の生き方に学びながら、悠々自適の生活を送り、慶安2年(1649)8月、81歳で没した。
 没後間もなく、弟子たちが歌文集『擧白集』10巻8冊を編纂し、刊行した。それには「和歌約1750首と60弱の文章が収められている。」彼の和歌は中世以来の伝統的な型を破り、世俗的な言葉を愛し、不思議と魅力的な雰囲気をもっており、そのことが江戸時代初期の在野の歌人たちに関心を持たれたようである。
 『木下長嘯子』(大内瑞恵)には、『擧白集』から50首の和歌が選ばれて、解説が加えられている。次に3つを選んで掲げてみよう。
 み吉野の山分け衣桜色に心の奥も深く染めてき
 (修行者のように山奥へ分け入っていくと、衣が花の色を映して桜色に染まるが、衣どころか私の心の奥も桜色に深く染まって何ともこころよいことだ。)

武蔵野や尾花を分けて出でぬ間は袖の中なる秋の夜の月
 (武蔵野の高く茂った尾花を分けて進んでいく間は、秋の夜の月は私の袖の中にその面影を棚引かせている影でしかない。いつ野が開けて大きな月を見られるか楽しみだ。)

 水の秋も冬籠もりして山川の氷の底に澱む紅葉ば
 (水の秋もようやく冬籠もりして、この山川の氷の底には紅葉の葉が澱んでいることよ)



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