吉川史料館・館長日記
吉川史料館・館長の藤重豊が日頃思うことや歴史などについて書きます。
04 | 2014/05 | 06
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 仙鳥館の襖の下張りから(1)
     仙鳥館の襖の下張りから(1)

1 仙鳥館の襖紙が傷んでいるものを、何枚か張り替えた。その折に下張りが少し出てきたので、それを少しづつ読んでみたいと思う。まず1枚目は以下の様な文書である。


                     今津村

                千百七拾六石九斗五升四合定め
                   但去年分御算用状前惣高
                     出入無之
                   付天保二卯ノ年迄ハ高千百七拾七石
                    九斗弐升壱合にて候得共、九斗
                    四升五合ハ麻里布沖林主馬殿
                    開作、翌辰ノ春塩浜地に石盛
                    替へ被仰、塩浜石ノ儀ハ室木
                    村へ入、後年若も作地に相成り候時は
                    是迄ノ通、今津村に被差戻候筈
                    之処、去辰ノ春、右拾弐石九斗四升
                    五合之内、七石七斗九升五合の場相
                    畝石改て石盛替へ被仰付、今津
                    村へ被差戻候、残り古石五石壱斗
                    五升ハ懸形塩浜石にて室木
                    村に被差戻候間、是又後年
                    作地に相成候ハハ、今津村へ被差
                    戻候事。
                    
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天保2卯年(1831)まで今津村の石高は、1177石9斗2升1合であった。翌天保3年辰年(1832)、麻里布沖に桂主馬(家中開作地)が開作した土地が12石9斗4升5合が塩浜地に石盛されて、室木村に入れられた。 このとき、やがて作地になれば今津村に編集されることとした。
 弘化元辰(1844)、12石9斗4升5合の内、7石7斗9升5合が作地にして、今津村に編入された。残りの5石1斗5升はそれまで通り塩浜石として室の木に差し置かれることになった。これもまた後年作地になれば今津村に差し戻すこととした。
 江戸時代の後半になると、錦川の河口付近の開作が盛んになる。岩国藩で町人請負開作や家中請負開作が結構盛んであった開作ができあがってもまだ塩分を含んでいるので、すぐ米が作れない。そこで、鍬下10年と俗に言われているが、約10年は年貢がかからず、その間綿作や蓮根またはイチジクなどの果樹を植えたといわれる。ここでの例では鍬下年季が12年であったことがわかる。
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独立の書(1)
いま吉川史料館では、独立の資料が何点か展示されている。そのうちの1点の書について紹介したい。(下に写真を掲載している。)書は「閒坐聴春禽」と読めるが、その意味が長い間よく分からなかった。この度、篆刻家大石明美氏からの教示で、その疑問が氷解した。
それは、閒という字が間=閑に通じるというのである。これにより「しずかに坐して春禽(春の鳥)の声を聞く」ということになろう。
また大石氏のから、こ一節が「唐・祖詠」の[蘇氏別業」の詩「別業居幽處 到来生隠心 南山當戸牖 澧水映園林 竹覆経冬雪 庭昏未夕陰 寥寥人堺外 閑坐聴春禽」からとられたのであろうとの由である。
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