吉川史料館・館長日記
吉川史料館・館長の藤重豊が日頃思うことや歴史などについて書きます。
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上月城跡の訪問(兵庫県佐用町)
長い間休眠していたが、いよいよ再び帰って来ました。

さて、吉川史料館では,秋の展示替えを行いました。テーマは「上月城と鳥取城の戦い」展です。期間は25年9月20日~12月23日です。

 私は、まだ上月城の城跡を見たことがないので、この機会にその土地を訪ねてみたいと思い行く事にした。10月6日、朝の6時30分、我が家を出発した。(同行者1名)(目的地は兵庫県佐用町)
 大竹から山陽高速自動車道に入る。広島五日市から中国高速自動車に分かれ、安佐、神郷、勝央を経由して、佐用JCTから降りる。上月山の麓に、11時30分到着。

 そこには上月歴史資料館があった。早速入館して拝観した。上月城の戦いのパネル。それにこの地方で作られていた土俗的な土人形たち、それにまたこの地方で盛んだった紙の生産の展示などあり、紙漉きの伝承館も併設されていた。

【上月歴史資料館】
DSCF0728_R.jpg
「画像をクリックすると拡大」

 さて、いよいよ上月城跡を目指して登る。305メートル位であるから、25分位で頂上に着いた。かなりな平坦地で、整備されて複数の石碑も建てられていた。石垣などはほとんど残っていないが、空堀は確認できた。山の斜面は麓に向かってかなり急峻なことが認められ、攻めるにはかなり困難を伴うと思われた。麓は佐用川が流れ、この地は播磨、備中、但馬の三国の国境にあり、山陽の姫路、岡山から山陰の鳥取を結ぶ交通の要衝の地であったことがわかる。

【左正面が上月城跡】
DSCF0740_R.jpg
「画像をクリックすると拡大」

 上月城の戦いを簡潔に述べると、以下のようになる。
 上月城では天正6年(1578)4月18日、尼子経久を擁立して城に立て籠もる山中鹿之介らを、毛利軍の吉川元春らが包囲網を完成した。羽柴秀吉は、5月1日、救援に駆けつけ、上月城の東、高倉山に陣を敷いた。両軍の戦端は、6月21日切って落とされた。
 しかし、信長は反旗を翻した別所長治の三木城の攻撃を優先するように指示してきた。上月城山麓での戦いは秀吉に不利な戦況であったために、やむなく陣を後退させざるを得なかった。尼子勢を見捨てる形になってしまったのである。籠城の尼子勢は城を支えきれず、籠城70余日にのぼったが遂に開城となった。尼子経久は自害して果てた。鹿之助は次の再起を胸に秘めて捕虜となった。

 元春は、鹿之介を輝元の本陣に送ることにした。輝元は将来に禍根を残さないように、福間彦右衛門、河村新左衛門らに命じて、護送の途中で殺害するように命じた。7月17日、山中鹿之介は備中国合の渡し(岡山県高梁市落合町阿部)で最後を迎えた。時に年齢は38歳あるいは、45歳といわれる。こうして山陰の名族尼子氏は滅亡した。

 元春は、この一代の英雄の死を悼み、残された鹿之助の兜を、吉川家の重代の家宝とするように命じた。吉川史料館では、毎年秋の展示でこの兜を出している。今でも山陰地方の人々には人気があり、この兜を目当てに来館される人は多い。

 帰りも、同じ経路を走り、岩国の我が家に着いたのは、19時ごろであった。所要時間約12時間。道のりは約600キロであった。わが中古品の自動車には荷が重すぎて、翌日はエンジン不調となった。

 ところで、資料館で以下の、2冊の書籍を購入した。『三日月町史 第2巻 中世』(平成11年3月1日 第3刷 兵庫県佐用郡三日月町 発行)と『佐用郡地域史研究会 紀要第4号』である。
 後者の『紀要第4号』はなかなか優れた内容である。山口県でも県内市町村の地域で郷土史あるいは地方史の研究会が機関誌を発行しているが、これほどのものはほとんどないと言ってよい。編集者および会員に敬意を表したい。

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