吉川史料館・館長日記
吉川史料館・館長の藤重豊が日頃思うことや歴史などについて書きます。
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羅漢図 添え状(1) 
今回の展示の羅漢図には、それが納められている箱に、2通の添え状が存在する。これを読んで少し背景など考えてみたいと思う。

 「          画僧恵龐(がそうえほう)小伝

       本朝画史巻三(中古名品之部)云慧龐不知世姓墨画学牧         
       澗長於人物筆法出於
       周文稍似て略粗耳印文曰徳鼎益
       其諱乎
       古畫潜覧云画僧恵龐慧(慧叉作恵)号
       徳鼎享禄年間人也学牧溪玉礀
       長于人物法周文て別出一機筆      
       畫勁利能畫出山釈迦及羅漢像云々
             香雪齋誌   

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署名の香雪斎というのは、藤田伝三郎のことである。彼は長州藩奇兵隊の出身である。維新後は大阪で藤田組を開業した。伊藤博文・山県有朋などと交友があり、政商として一代で財閥と言われるまでに大きな財を築いた。
 はやくから書画骨董に関心を持ち、収集家として名高い。大正末・昭和初の経済不況期に多く売り立てをしたという。しかし昭和26年に大阪に藤田美術館が建設されたが、それは残りのコレクションで開設されたものである。
 ところで、『日本畫家鑑定大事典 第1巻』(中野稚宗、国書刊行会)によると、「慧龐(僧えほう) 名は徳鼎(とくてい) 初め周文に学ぶ、稍々似たる所あれど粗筆なり、後に牧溪・玉礀を学び、墨画の人物に長ず、その落款に大明成化六年(文明二年=1471、に当る。)とあり。帰化僧なり、遺作の十六羅漢三幅、高野山行人方寺院にあり。」とある。
 この羅漢図はもともと高野山にあったことがわかる。それがある時点で流出し、やがてどこかで藤田伝三郎が取得したと思われる。
 藤田伝三郎は男爵であった。また吉川重吉も男爵であり、二人とも長州人であったから、交際もあったと考えられる。藤田伝三郎が贈ったのか、あるいは吉川重吉が購入したのか分からないが、吉川重吉が何かの思いで吉川家に納めたものと思われる。

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