吉川史料館・館長日記
吉川史料館・館長の藤重豊が日頃思うことや歴史などについて書きます。
09 | 2017/10 | 11
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MIHO MUSEUM(滋賀県甲賀市信楽町)を訪ねて
 6月30日に日帰りで行ってきた。夏季特別展「極(KIWAMI) 大茶の湯釜展ー茶席の主ー」を観るためである。展示期間は6月4日~7月31日まで。
 朝6時30分に岩国を出て、帰宅は21時30分。少々疲れた。それでも京都まで日帰りができる時代になり、幸せと思わなければならない。新幹線で京都まで行き、琵琶湖線に乗り換えて、石山で下車する。そこからバスに乗って約50分、緑豊かな山の中にその美術館は建っている。                             
 チラシを読むと、「本展は「茶の湯釜」の研究者である原田一敏氏(東京芸術大学大学美術館教授・元東京国立博物館金工室長)の監修により構成され、芦屋釜・天明(てんみょう)釜に加え、利休の釜師おして知られる辻与次郎など初期の京釜や、江戸時代の釜にも焦点を当てます。あわせて、釜師たちが造った梵鐘や鰐口など関連する作品も展示し、奈良時代から近世までの釜の変遷を、名品の数々によって展望します。
 またこの度、重要文化財に指定されている9展の釜すべてが、初めて一堂に会します。信長・秀吉・利休・織部などが愛でたと伝わる釜も勢ぞろいします。先人たちによって守りつがれてきた名品たちの息吹を堪能する、絶好の機会となるでしょう。」とある。
 ところで、今回なぜこの美術館を訪ねたのかというと理由があった。今年の初め実は本郷歴史民俗資料館(岩国市と合併する前は本郷村)に行く機会があった。
 そこに茶釜が数個収蔵されていた。少し違和感を感じた。というのは歴史民俗資料館は文化庁が社会の急激な構造変化のもとで、急速に失われて行く農具や庶民の日常生活雑器をとにかく収集保存しようとして作ったメニュである。
 中世この地方は大内氏の支配下にあり、安芸、備後に勢力拡大するために軍勢を進めるとき、専らこの本郷(山代)の地を通ったのである。(瀬戸内の山陽道を通るより近かったのである。)時代は中国から伝わった喫茶の風習が、貴族や足利将軍家、あるいは地方の守護大名や武将たちに広がりつつあった。大内氏は九州の芦屋で作られた芦屋釜を随分各地に贈答品として配ったという。
 本郷歴史民俗資料館の茶釜のうち、一つ位は室町時代の製作になると、証明できないかというのが、私の仮説である。調査の結果を秋までにはまとめたいと思っている。
「澄川喜一展 ー全ての原点は錦帯橋ー 」を観て
 6月25日でかけた。シンフオニア岩国開館20周年記念ということで催されている。山口県立美術館の12点の作品が展示されている。開催期間は6月21日~7月5日である。
 澄川喜一(1931~    )は、島根県鹿足郡六日市町(いまの吉賀町)生まれの彫刻家である。岩国工業高校を卒業のあと、東京芸術大学で学び、その後同大学教授、さらには学長をも務めた。いま岩国市の名誉市民である。
 自分でも述べておられるが、錦帯橋の美しさに魅せられて木彫に興味を持ったという。自然の素材を活かし、独特の曲線を「そり」と「むくり」で表現した抽象造形に、東洋的美意識の可能性を追求し、現代日本の代表的芸術家の一人になられた。
 たまたま、受付で販売している『澄川喜一 ーシンプル・イズ・ビューティフル』(これは2015年7月に島根県石見美術館の開館10周年の特別展の図録)を購入して、読みながら会場を一巡すると、時系列的にその作品をよく理解できて、有意義である。しばらく、やすらぎの空間で時間を忘れる。市民の多くの皆さんが足を運ばれるとよいがなあと思います。
 ところで、東京芸術大学の学長が、日本の文化芸術の代表者として、いかにその権威が高いかを象徴するものとして、私が一つの感懐をもって眺めているいるのが、錦帯橋の上手の河川敷に作品「石の翼」が設置されていることだ。
 錦帯橋は名勝として国指定文化財となっている。横山の土手を見ると、その中央に名勝としての境界線が引かれている。従って記念碑やその他の設置物はすべて横山側の斜面に作られている。文化庁が境界内に例外として設置をみとめているのはただ一つである。
 最後に、錦帯橋の世界遺産指定へ向けての運動も最近少し盛り上がって来たのは喜ばしい。最近色々なものを読んでいると、これからの観光は一人、あるいは家族、あるいはグループでゆっくり広範囲に旅しながら歴史的遺産や風景、あるいは野鳥や植物・昆虫を眺めながら旅するようになろうとしている。
 岩国市の行政当局などが、錦川をさかのぼり島根県に入り、吉賀町から益田に至る、山陽と山陰を結ぶ観光ルートの策定など模索したらどうだろう。歴史的遺物や自然地理的風景など興味の湧くものがたくさんある。澄川喜一先生の存在もおおいに活用ができるはずである。21世紀の社会構造の変化の中で山口県、広島県、岡山県、島根県、鳥取県が単独でやっていくには財政が持たないのは時間の問題であると、私は思っている。
 仙鳥館の襖の下張りから(1)
     仙鳥館の襖の下張りから(1)

1 仙鳥館の襖紙が傷んでいるものを、何枚か張り替えた。その折に下張りが少し出てきたので、それを少しづつ読んでみたいと思う。まず1枚目は以下の様な文書である。


                     今津村

                千百七拾六石九斗五升四合定め
                   但去年分御算用状前惣高
                     出入無之
                   付天保二卯ノ年迄ハ高千百七拾七石
                    九斗弐升壱合にて候得共、九斗
                    四升五合ハ麻里布沖林主馬殿
                    開作、翌辰ノ春塩浜地に石盛
                    替へ被仰、塩浜石ノ儀ハ室木
                    村へ入、後年若も作地に相成り候時は
                    是迄ノ通、今津村に被差戻候筈
                    之処、去辰ノ春、右拾弐石九斗四升
                    五合之内、七石七斗九升五合の場相
                    畝石改て石盛替へ被仰付、今津
                    村へ被差戻候、残り古石五石壱斗
                    五升ハ懸形塩浜石にて室木
                    村に被差戻候間、是又後年
                    作地に相成候ハハ、今津村へ被差
                    戻候事。
                    
img006_R.jpg
img005_R.jpg


天保2卯年(1831)まで今津村の石高は、1177石9斗2升1合であった。翌天保3年辰年(1832)、麻里布沖に桂主馬(家中開作地)が開作した土地が12石9斗4升5合が塩浜地に石盛されて、室木村に入れられた。 このとき、やがて作地になれば今津村に編集されることとした。
 弘化元辰(1844)、12石9斗4升5合の内、7石7斗9升5合が作地にして、今津村に編入された。残りの5石1斗5升はそれまで通り塩浜石として室の木に差し置かれることになった。これもまた後年作地になれば今津村に差し戻すこととした。
 江戸時代の後半になると、錦川の河口付近の開作が盛んになる。岩国藩で町人請負開作や家中請負開作が結構盛んであった開作ができあがってもまだ塩分を含んでいるので、すぐ米が作れない。そこで、鍬下10年と俗に言われているが、約10年は年貢がかからず、その間綿作や蓮根またはイチジクなどの果樹を植えたといわれる。ここでの例では鍬下年季が12年であったことがわかる。
独立の書(1)
いま吉川史料館では、独立の資料が何点か展示されている。そのうちの1点の書について紹介したい。(下に写真を掲載している。)書は「閒坐聴春禽」と読めるが、その意味が長い間よく分からなかった。この度、篆刻家大石明美氏からの教示で、その疑問が氷解した。
それは、閒という字が間=閑に通じるというのである。これにより「しずかに坐して春禽(春の鳥)の声を聞く」ということになろう。
また大石氏のから、こ一節が「唐・祖詠」の[蘇氏別業」の詩「別業居幽處 到来生隠心 南山當戸牖 澧水映園林 竹覆経冬雪 庭昏未夕陰 寥寥人堺外 閑坐聴春禽」からとられたのであろうとの由である。
img004_R.jpg

仙鳥館の牡丹
 横山の岩国徴古館の庭の牡丹の花が見頃となり、賑わっている。わたしが仙鳥館の庭の剪定と草刈りをするのに、30株位牡丹を植えてやろうと思い、昨年8株ほど植えたのが、今年早くも見事な花を咲かせた。いまちょうど盛りである。その内一般のひとたちに公開したいと思っている。

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 ところで、昨日藩校養老館の督学を勤めた玉乃九華が著した詩文集『松雪洞遺稿』を読んでいたら、次のような詩の一節を見つけた。
                 陪宴於昌明館後園恭賦

      一自臨川花著白   恭陪高駕及春蘭   不知今日何恩幸   又入昌明看牡丹

 これを読むと、幕末の昌明館の庭には牡丹園があったことが分かって嬉しくなった。いまの吉川史料館の建物の下だったりして・・・・・?
     


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